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連載「量子もつれ攻略ノート」 1/13

なぜ片方を測ると、もう片方が瞬時に決まるのか —— 量子もつれ攻略ノート(1)

本稿の位置づけ

新しいシリーズを始める。標的は量子エンタングルメント(量子もつれ)の有名な疑問。もつれた粒子の片方を測ると、どんなに離れていてももう片方の状態が瞬時に決まるのはなぜか。光速を超えて何かが伝わっているのではないか。

この標的を選んだのは、前シリーズ(発散情報保存理論・全7部40章)で磨いた道具がそのまま使えそうだからである。情報の「深さ」という語彙と、「動詞を疑う」という流儀だ。前シリーズの結論の一つは「ブラックホールの情報は動かない、観測者の地平が動く」だった。今回の疑問にも同じ型の落とし穴、つまり間違った動詞が仕掛けられている気がしている。

いつも通り、主張には検証をつける。本シリーズの計算はすべて外部ライブラリなしの素のPythonで再現できる。


1. 疑問を正確に書く

1.1 現象

2つの量子ビット(例えば光子の偏光のペア)を、Bell状態と呼ばれる状態に用意できる:

読み下すと「2つとも0」と「2つとも1」の重ね合わせである。粒子を1つだけ取り出しても、その粒子の値は決まっていない。決まっているのは、2つを測ったときに結果が一致することだけである。この2粒子を、片方は手元に、もう片方は月へ送る。手元の粒子を測って0が出たら、月の粒子は測れば必ず0が出る状態にその瞬間なる。1なら1に。

アインシュタインたちはこれを1935年に指摘し、量子力学による記述は不完全だと主張した [Einstein–Podolsky–Rosen 1935]。測った瞬間に月まで「何か」が届くなら、光速の上限(相対論)が破られているように見える。この状況を指す有名な「不気味な遠隔作用(spukhafte Fernwirkung)」という言い回しは、EPR論文には出てこない。アインシュタインが1947年3月3日付のMax Born宛書簡で使った語である [Born–Einstein Letters]。呼称と論文を混同しないよう、ここで分けておく。

1.2 疑問の解剖:「瞬時に決まる」の二つの読み

「片方を測るともう片方が瞬時に決まる」という文には、まったく違う二つの解釈が同居している。

  • 読みA(伝達説):測定の瞬間、粒子Aから粒子Bへ何かが飛ぶ。だから遠隔作用であり、光速の上限が問題になる。
  • 読みB(記録説):答えはペアが作られたときに書き込まれていた。測定は封筒を開けただけ。開けた瞬間に相手の封筒の中身が「わかる」のは当たり前で、何も飛んでいない。

読みBの日常版は「Bertlmannの靴下」として知られる [Bell 1981]。ベルトルマン氏は必ず左右違う色の靴下を履く。左足がピンクだと見えた瞬間、右足はピンクでないと「瞬時にわかる」。遠隔作用ではなく、ただの相関である。

疑問を攻略可能な形に分解する。

  • Q1:読みAは成り立つか。つまり、測定によって実際に何かが飛んでいるか。
  • Q2:読みBは成り立つか。つまり、量子もつれは局所隠れ変数(あらかじめ決まった答えの表)と同じか。
  • Q3:どちらでもないなら、では何なのか。

本稿ではQ1に決着をつける。

2. Q1の答え:何も飛んでいない(no-signaling定理)

2.1 主張

定理(no-signaling) Aliceが自分の粒子に何をしても(どの向きで測っても、測らなくても)、Bobの側で観測できる統計は一切変化しない。

これが正しければ、読みA(伝達説)は成り立たない。「何かが飛んでいる」のに受け手側で原理的に何一つ検出できないなら、物理としてそれは「飛んでいない」と同義である。とくに、もつれを使って光速超えの通信はできないから、相対論との衝突は最初から存在しない。

2.2 証明の骨子

Bobが自分の粒子から得られる測定結果の統計は、すべてBobの縮約密度行列 (2粒子全体を表す行列から、Aliceの分を数え落としたもの)で決まる。Aliceが自分の側でできる操作は、どれも の形をとる(Bob側には何も作用させない)。部分トレースの巡回性から

Aliceの添字だけで閉じている操作は、Bobの行列を変えられない。数行の代数である [教科書として Nielsen–Chuang 2000, §2.4]。

2.3 数値検証

Bell状態に対し、Aliceが5通りの向き(0, 0.3, π/4, 1.234, π/2 ラジアン)で測定した後のBobの密度行列を、測定前と比較した:

Aliceの測定角
0.0000
0.3000
0.7854 (π/4)
1.2340
1.5708 (π/2)

機械精度で不変。Bobの手元は、月にあろうとアンドロメダにあろうと、Aliceが何をしようとぴくりとも動かない。

2.4 では「瞬時に決まる」ように見えたのは何だったのか

Aliceの結果を知る前のBobにとって、粒子は確率半々の雑音でしかない()。しかもAliceが何をしてもこれは動かない。それが上の表である。「Bobの粒子が0に決まった」と言えるのは、Aliceの結果という条件で条件づけたときだけであり、その条件をBobが知るには古典通信、つまり光速以下の手段が必要である。

「瞬時に決まる」の実態はこうまとめられる。相関の記録は最初からある。Aliceの結果を条件にした予想(条件つき分布)は定義上その場で書き換わるが、その条件が届くまで、書き換わった予想を使える者は誰もいない。動詞を訂正すると、測定は何も送らない。すでにある相関の自分側を読むだけである。

3. 深さの言葉で言い直す

前シリーズの語彙を使うと、この構造は一言で書ける。Bell状態の情報は深さ2にある。深さ2とは、1粒子だけをどう測っても得られる情報がゼロ(縮約が最大混合)で、2粒子を突き合わせて初めて読める、という置かれ方のことである。

  • 相関が書き込まれたのは、ペアが局所的に作られた瞬間(2粒子が同じ場所で相互作用したとき)。
  • その後2粒子がどれだけ離れても、記録は深さ2に置かれたまま動かない。
  • 測定は各自が自分側の断片を読む行為。断片同士を比べる(深さ2の読み出しを完成させる)には、古典通信で二つの断片を同じ場所に集めるしかない。

前シリーズの最終章(第7部第9章)の「情報は動かない、地平が動く」と同じ型である。ここでも情報は動かず、観測者が深さ2の読み出しを完成できる瞬間が光速で制限されているだけだ。

4. 残った疑問:局所隠れ変数なのか(Q2)

Q1は片づいた。何も飛んでいない。すると疑問は読みBに移る。量子もつれは局所隠れ変数と同じなのか。ペア生成時に「Aは0、Bは0」という答えの表が(我々に見えないだけで)書き込まれていた、というだけの話なのか。

もしそうなら、この疑問に神秘は一切残らない。実は、アインシュタインが望んだのはまさにこの描像(局所隠れ変数)だった。

ところが1964年、John Bellがこの「最初から答えの表があった説」を実験で白黒つけられる不等式に変えてしまった [Bell 1964]。そして自然は、表がありえないほうに答えた。局所隠れ変数では説明できない何かが、深さ2に書き込まれている。ただし本稿はその不等式をまだ一行も書いていない。次稿で不等式を組み立て、その「何か」を数として取り出す。

5. 本稿の結果一覧

結果等級
疑問の分解(伝達説A/記録説B)整理
no-signaling定理(Aliceの操作はρ_Bを変えない)定理(数行の代数)
5測定角での数値検証 検証済み
「瞬時に決まる」=条件つき分布の更新(使用には古典通信必須)導出
深さの読み替え:相関は生成時に深さ2に書かれ、動かない翻訳(前シリーズの語彙)
量子もつれ=局所隠れ変数か未解決(次稿)

参考文献

  • A. Einstein, B. Podolsky, N. Rosen, Can quantum-mechanical description of physical reality be considered complete?, Phys. Rev. 47 (1935) 777:EPRパラドックスの原論文。
  • M. Born (ed.), The Born–Einstein Letters, Macmillan (1971):「spukhafte Fernwirkung」の出所(1947年3月3日付 アインシュタイン→ボルン書簡)。
  • J. S. Bell, Bertlmann's socks and the nature of reality, J. Phys. Colloques 42 (1981) C2-41:靴下の比喩の出典。
  • J. S. Bell, On the Einstein Podolsky Rosen paradox, Physics 1 (1964) 195:次稿の主役。
  • M. A. Nielsen, I. L. Chuang, Quantum Computation and Quantum Information, Cambridge UP (2000):no-signalingを含む標準教科書。
  • 前シリーズ「発散情報保存理論」(全7部・全40章):情報の深さの操作的定義(第2部第2章)、情報は動かない・地平が動く(第7部第9章)。