なぜ片方を測ると、もう片方が瞬時に決まるのか
—— 量子もつれ攻略ノート(1)——
本稿の位置づけ
新しいシリーズを始める。標的は量子エンタングルメント(量子もつれ)の有名な疑問——もつれた粒子の片方を測ると、どんなに離れていてももう片方の状態が瞬時に決まるのはなぜか。光速を超えて何かが伝わっているのではないか。
この標的を選んだ理由は、前シリーズ(発散情報保存理論・全40稿)で磨いた道具——情報の「深さ」という語彙、そして「動詞を疑う」という流儀——がそのまま使えそうだからである。前シリーズの結論の一つは「ブラックホールの情報は動かない、観測者の地平が動く」だった。今回の疑問にも、同じ型の罠——間違った動詞——が仕掛けられている気がしている。
いつも通り、主張には検証をつける。本シリーズの計算はすべて外部ライブラリなしの素のPythonで再現できる。
1. 疑問を正確に書く
1.1 現象
2つの量子ビット(例えば光子の偏光のペア)を、Bell状態と呼ばれる状態に用意できる:
読み下すと:「両方0」と「両方1」の重ね合わせであり、どちらか一方だけが単独で状態を持っていない。この2粒子を、片方は手元に、もう片方は月へ送る。手元の粒子を測って0が出たら、月の粒子は測れば必ず0が出る状態にその瞬間なる。1なら1に。
アインシュタインたちはこれを1935年に指摘し [Einstein–Podolsky–Rosen 1935]、「不気味な遠隔作用(spukhafte Fernwirkung)」と呼んで量子力学の不完全性の証拠だと主張した。測った瞬間に月まで「何か」が届くなら、光速の壁(相対論)が壊れているように見える。
1.2 疑問の解剖:「瞬時に決まる」の二つの読み
ここが本シリーズの出発点である。「片方を測るともう片方が瞬時に決まる」という文には、まったく違う二つの解釈が同居している:
- 読みA(伝達説):測定の瞬間、粒子Aから粒子Bへ何かが飛ぶ。だから遠隔作用であり、光速の壁が問題になる。
- 読みB(記録説):答えはペアが作られたときに書き込まれていた。測定は封筒を開けただけ。開けた瞬間に相手の封筒の中身が「わかる」のは当たり前で、何も飛んでいない。
読みBの日常版は「Bertlmannの靴下」として知られる [Bell 1981]。ベルトルマン氏は必ず左右違う色の靴下を履く。左足がピンクだと見えた瞬間、右足はピンクでないと「瞬時にわかる」——遠隔作用ではなく、ただの相関である。
疑問を攻略可能な形に分解すると:
- Q1:読みAは成り立つか。つまり、測定によって実際に何かが飛んでいるか。
- Q2:読みBは成り立つか。つまり、量子もつれは靴下と同じ(あらかじめ決まった答えの表)か。
- Q3:どちらでもないなら、では何なのか。
本稿ではQ1を仕留める。
2. Q1の答え:何も飛んでいない(no-signaling定理)
2.1 主張
定理(no-signaling) Aliceが自分の粒子に何をしても——どの向きで測っても、測らなくても——Bobの側で観測できる統計は一切変化しない。
これが正しければ、読みA(伝達説)は死ぬ。「何かが飛んでいる」のに、受け手側で原理的に何一つ検出できないなら、物理としてそれは「飛んでいない」と同義である。とくに、もつれを使って光速超えの通信はできない——相対論との衝突は最初から存在しない。
2.2 証明の骨子
Bobに見えるすべては、Bobの縮約密度行列 (全体からAliceの分を数え落とした行列)で決まる。Aliceの操作は の形をとり、部分トレースの巡回性から
——Aliceの添字だけで閉じている操作は、Bobの行列を変えられない。数行の代数である [教科書として Nielsen–Chuang 2000, §2.4]。
2.3 数値検証
Bell状態に対し、Aliceが5通りの向き(0, 0.3, π/4, 1.234, π/2 ラジアン)で測定した後のBobの密度行列を、測定前と比較した:
| Aliceの測定角 | |
|---|---|
| 0.0000 | |
| 0.3000 | |
| 0.7854 (π/4) | |
| 1.2340 | |
| 1.5708 (π/2) |
機械精度で不変。Bobの手元は、月にあろうとアンドロメダにあろうと、Aliceが何をしようとぴくりとも動かない。
2.4 では「瞬時に決まる」ように見えたのは何だったのか
Aliceの結果を知る前のBobにとって、粒子は確率半々の雑音でしかない(、上の表の通り)。「Bobの粒子が0に決まった」と言えるのは、Aliceの結果という条件で条件づけたときだけであり、その条件をBobが知るには古典通信——光速以下——が必要である。
つまり「瞬時に決まる」の実態は:相関の記録は最初からあり、条件つき分布は定義上瞬時に更新されるが、それを使える者は誰もいない(通信が届くまで)。動詞を訂正すると——
測定は何も送らない。測定は、すでにある相関の自分側を読むだけである。
3. 深さの言葉で言い直す
前シリーズの語彙を使うと、この構造は一言で書ける。Bell状態の情報は深さ2にある——どちらか1粒子をどう測っても得られる情報はゼロ(縮約が最大混合)で、2粒子を比べたときに初めて読める。
- 相関が書き込まれたのは、ペアが局所的に作られた瞬間(2粒子が同じ場所で相互作用したとき)。
- その後2粒子がどれだけ離れても、記録は深さ2に置かれたまま動かない。
- 測定は各自が自分側の断片を読む行為。断片同士を比べる(深さ2の読み出しを完成させる)には、古典通信で二つの断片を同じ場所に集めるしかない。
前シリーズ第40稿の「情報は動かない、地平が動く」と同じ型である。ここでも情報は動かない——観測者が深さ2の読み出しを完成できる瞬間が、光速で制限されているだけだ。
4. 残った疑問:靴下なのか(Q2)
Q1は片づいた。何も飛んでいない。すると疑問は読みBに移る——では量子もつれは、Bertlmannの靴下と同じなのか? ペア生成時に「Aは0、Bは0」という答えの表が(我々に見えないだけで)書き込まれていた、というだけの話なのか。
もしそうなら、この疑問に神秘は一切残らない。そして実は、アインシュタインが望んだのはまさにこの描像(隠れた変数)だった。
ところが——これが次稿の主題だが——1964年、John Bellがこの「最初から答えの表があった説」を実験で白黒つけられる不等式に変えてしまった [Bell 1964]。そして自然は、表がありえないほうに答えた。靴下では説明できない何かが、深さ2の倉庫に入っている。次稿でその「何か」を数える。
5. 本稿の結果一覧
| 結果 | 等級 |
|---|---|
| 疑問の分解(伝達説A/記録説B) | 整理 |
| no-signaling定理(Aliceの操作はρ_Bを変えない) | 定理(数行の代数) |
| 5測定角での数値検証 | 検証済み |
| 「瞬時に決まる」=条件つき分布の更新(使用には古典通信必須) | 導出 |
| 深さの読み替え:相関は生成時に深さ2に書かれ、動かない | 翻訳(前シリーズの語彙) |
| 量子もつれ=靴下(隠れた変数)か | 未解決(次稿) |
参考文献
- A. Einstein, B. Podolsky, N. Rosen, Can quantum-mechanical description of physical reality be considered complete?, Phys. Rev. 47 (1935) 777:EPRパラドックスの原論文。
- J. S. Bell, Bertlmann's socks and the nature of reality, J. Phys. Colloques 42 (1981) C2-41:靴下の比喩の出典。
- J. S. Bell, On the Einstein Podolsky Rosen paradox, Physics 1 (1964) 195:次稿の主役。
- M. A. Nielsen, I. L. Chuang, Quantum Computation and Quantum Information, Cambridge UP (2000):no-signalingを含む標準教科書。
- 前シリーズ「発散情報保存理論」(全40稿・全7冊):情報の深さの定義(第5稿)、情報は動かない・地平が動く(第40稿)。